バブルのきっかけとなった『プラザ合意』
1990年、日本に起きた『バブル崩壊』。
それ以来、その後の長期にわたる日本経済の停滞が起こりデフレが続いていると言われており、『失われた20年』と呼ばれていました。
バブルの発端は、1985年9月22日の『プラザ合意』でした。
ニューヨークにプラザホテルというセントラルパークの近くに位置している5つ星の豪華なホテルの会議室にて開かれた、ドル高是正のためのプラザ合意が、バブルへの引き金となるスタートでした。
この頃の当時、日本の経済がどんどん発展して、アメリカに日本製品が大量に輸出されました。
日本から安くて品質の良いものが、どんどん入ってきて、アメリカの企業は、日本の企業に太刀打ちできずに圧迫していたのです。
そこで、アメリカ議会が何とかしなさいと、怒りをあらわにし、日本の製品がアメリカに大量に入ってこないようにするにはどうすれば良いか考えたのでした。
そして、『円』をあげればいいのだと画策し、円高ドル安にすれば、日本からアメリカに輸出される製品をアメリカで買う値段が高くなるということでした。
一方で、ドル安ならばアメリカは製品を安く輸出できますので、これを持ってアメリカ経済を建て直そうとしたのでした。
このプラザ合意は、日本とアメリカだけの合意ではありませんでした。
イギリス、東西統一前の西ドイツや、フランスといった世界の先進国の財務省が集まって、アメリカの経済が危機的な状況になると、世界中に影響が及ぶからと、円高ドル安にしようという是正に協力しようと合意したのでした。
西ドイツも、西ドイツマルクが高くなるように対ドル相場を調整すると合意したのでした。
プラザ合意により一挙に円高ドル安が進んだ
プラザ合意によって、先進5カ国は、ドル安を進めるために為替市場への『協調介入』を実施しました。
各国の中央銀行は足並みをそろえ、大量のドルを売り出したのでした。
ここも需要と供給の関係となります。
『外国為替取引』で、円とドルを交換することができます。当然のことながら、円が欲しいという人が多ければ「円高」になり、少なければ「円安」になるわけですね。
各国が持っているドルをせっせと売って、円に換えれば、円の需要が高まるわけなので、円の価値が上がります。
一方で、皆んながドルを売るため、ドルは下がっていったため一挙に円高ドル安が進んだのでした。
1985年9月の段階では、
1ドル = 240円
で交換できていたのでしたが、プラザ合意によって、翌年1月には、200円を切りました。
4ヶ月で一気に40円も円高になったのです。
さらに2年後には、120円にまで上がりました。
2年で半分の価値に変動したのでした。
円高や、円安など、外国為替については、基本的には、いくらが円高でいくらが円安ということではないということがあります。
直前よりも高くなれば円高、安くなれば円安ということになります。
例えば、昨日1ドルが80円で、今日76円になれば円高になったということです。
また一方で、これが明日、78円になれば昨日に比べると、80円が78円になって上がっているのですが、今日の76円よりも下がったので円安という言い方をされます。
ですので、当時は、1ドル240円が200円に上がり、大変な円高だと大騒ぎをしていたのでした。
低金利になり土地を買う企業が急増
円高になるとどうなるのであったかと言うと、
日本のメーカーが自動車やテレビなどを輸出しようとすると、海外での輸出製品の値段が高くなってしまいます。
その急激な円高によって海外でものが売れなくなるため、日本の輸出産業が大打撃を受けたのでした。
そして、アメリカでの値上げは避けられなくなり、海外で日本製のものが売れなくなり、日本は不況に陥ったのでした。
不況に陥った時の景気対策にはさまざまな方法があるのですが、日本政府がこの時に行なったことは、企業が銀行からお金を借りやすいように、金利を下げるという方法を取ったのでした。
現在においては、中央銀行が政策的に上げたり下げたりする『政策金利』と言う形で、マーケットで金利が決まるように日本銀行が、誘導しているのですが、
当時は、まだ『公定歩合』を操作することで、金融政策を行なっており、日本銀行が公定歩合を引き下げる運びを取りました。
日本銀行は、そこから5回渡って金利をどんどん引き下げ、
プラザ合意から2年後の1987年には2.5%と言う戦後最低の金利になりました。
2.5%と言うのは、現代に暮らす私たちにとっては、とても高く見えますが当時は非常に低い金利になったとみんなが受け止めたのでした。
金利が低くなると、銀行からお金を借りやすくなります。ところが、このとき多くの企業は、低い金利でお金を借りて、それで土地を買おうと考え使ったのでした。
お金を借りて、新しい工場を建てたり、事業を始めたりした会社もありました。
ただしその一方で、日本には『土地神話』と言うものがあり、日本の土地は狭く限りがあるため、とりあえず土地を買っておけば、経済が上向けば、必ずすぐに土地の値段が上がると皆んなが思っていました。
そこで売れば儲かると考え、安易にも土地を買うことが流行したのでした。
これを当時、企業や個人が、本業以外に余剰資金などを株式・債券・土地などに投資して資産を増やそうとする、財産を増やすテクニックとして、『財テク』と呼ばれました。
企業は、企業が得た利益から、税金や、配当金、役員賞与などを差し引いた残りの部分のお金を『内部留保』と言う形で取っておくのが一般的です。
とりあえず会社はうまくいって儲かった、でもやがて景気が悪化して経営が苦しくなるかもしれないため、その時に備えて儲かっているときにお金を貯めておこうと考えるわけなのです。
ただしこの時は、銀行にお金を預けているだけではたいして増えないが、土地を買えば、値段がどんどん上がっていくから大儲けができると企業は考えました。
低金利で借りたお金で土地を買い、その土地を担保にまたお金を借りる、
さらにお土地を買い担保にして、、、とそれを繰り返したのでした。
鉄道会社や食品会社などの企業が本業とは別に、次々に大量に買ったり、あるいはゴルフ場を作ったりと、こうした財テクを行使するようになり、投資で大儲けし企業も個人も「財テク」に必死になったのでした。
当時、「財テクを行わない経営者は経営者失格だ。」などと、経済評論家に言われていました。
そういった何とかお金を増やそうと必死になってしまった経営者も多かったのです。
その結果、土地の値段はどんどん上がっていき、一番高かった時は、東京23区の時価とアメリカ全土の時価が等しいとさえ言われていたのです。
もう一つのきっかけ『株の急騰』
バブルは、土地の値上がりで起こったのか?というと、それだけではありませんでした。
日本電信電話公社は、1985年にNTTと言う民間企業となりました。
この時、一般市民に向けて新規に発行した株が、わずか2ヶ月後には3倍近くになったのでした。
この出来事を引き金に、空前の株ブームが起こりました。
みんなが株を買い、どんどん株価は上がりました。
会社は、株を発行すればお金が集まるので銀行からお金を借りなくなりました。
そこで銀行は、新しい融資先として土地の所有者たちを選び、土地を担保にお金を貸すからマンションを建てましょうと持ちかけたのです。
どんどん増える消費
そこから皆んなが、実際に資産を売ってお金を得たわけではなくとも、持っている土地や株の価格が上がり、それで皆んなお金持ちになった気分になれたため、いろいろなものを買うようになったのです。
そうして景気もどんどん良くなり、会社も潤い、大盤振る舞いをするようになったのです。
ボーナスが急に増えたり、利益にかかる税金を減らすために会社は巨額の経費を使い、接待などが盛んに行われたりしたわけです。
会社は、利益をそのまま税務署に申告すると、たくさんの税金を取られてしまうため、必要経費として使ってしまえば税金で納める必要がなくなります。
税金は、収入から経費を差し引いた所得の部分にかかります。
利益をそのまま申告すると、税金をたくさん持っていかれてしまう・・
であれば、先に経費で使ってしまおうと、接待が盛んになりました。
お得意様を接待して飲み食いすれば、それが経費として認められ落ちると言うことです。
【 収入 ー 経費 = 所得 】 <= 税金は、所得に対して掛かります。
土曜や日曜は、接待ゴルフ、あるいは毎晩のように銀座・赤坂・六本木で豪遊し、帰りは会社がくれたタクシーチケットを使って、自分はお金を払わずに帰れるといった、こういう状態になりました。
タクシーを止める際に、1万円札をなびかせアピールし止めていたことも茶飯事でした。
飲み屋さんもタクシーの運転手もみんなが儲かりますね。
そんな彼らもまたいろいろな買い物を行うようになるので、どんどん景気が良くなるわけだったのです。
これが、『バブル』と言うものです。
ただし、当時は誰もバブルとは言いませんでした。空前の好景気などという言い方をされ、さなかにいる時は、誰もバブルだとは気づかないものなのでした。
バブル崩壊までの秒読み
好景気ということは、物価が上昇し続けることでしたね。
特に土地が高騰し続けると、サラリーマンが家を買えなくなりますね。
政府には、その不満を解消する必要があり、そこで政府は銀行へ「不動産会社にこれ以上、お金を貸すな」と言う指令を出し、何とか土地の値上がりにブレーキをかけようとしたのです。
これを『総量規制』と言います。
さらに土地の評価額の0.3%を『地価税』として徴収することにしました。
土地を持っているほど儲かると言う状況を改めるためでした。
さらに日銀も金利を引き上げました。
『公定歩合の推移』は、
1989年5月まで、2.5% に対し、15ヶ月後の1990年8月には6.0%まで上がりました。
銀行から土地を担保にお金を借りられなくなり、みな土地の売買をやめることになりました。
こうして土地の値段はどんどん値下がりし、暴落して行ったのでした。
そして、土地が値下がりすると、土地を担保にお金を貸していた銀行は、貸したお金を回収できなくなりました。これにより、各銀行は、『不良債権』の山を抱えることになったのでした。
1997年には、とうとう三洋証券、北海道拓殖銀行、山一證券など多くの金融機関が倒産し始めたのでした。
さらにここから、「この銀行は危ないのではないか?」と、銀行同士が疑心暗鬼になり、日本中のお金の流れがストップしたのでした。
経済は大混乱し、日経平均株価は大暴落に至ったのでした。
これが、『バブルの崩壊』です。
では、またバブルは来ないのか?と言うと、
バブルは30年ごとにやってくると言う説などもあり、バブルが弾けて大損した世代が後退して、バブルを知らない世代が育ちます。
そうすると、また新しい経済が発展し得ると言うことですね。
次は、私たち世代で、ゆるやかなインフレを作っていく努力に励み、私たちの大切な人たちとかけがえのない社会を形成すべくゆるやかなバブルを目指していきたいですね!
そして、その次の世代にバトンを渡し、また次のバブルへと続いていけることが望ましいですね。
僕も頑張ります。
一緒に頑張りましょう٩( ‘ω’ )و