終戦、そして敗戦国としての復興へ
1945年3月10日、東京大空襲が起き、様々なものや家、人々が焼け出され、多くのものを日本人は失いましたね。
ホラの祖父は、終戦当時、フィリピンのどこだかの島に潜伏しているところで、
日本に帰国できたのは、同年の年暮れの頃だったとかだと聞きました。
壮絶で、悲惨な出来事でしたね。。
ただし、見る角度を変えれば、戦争に負けたことにより、それ以上に失うことを止められたとも取れるかもしれませんよね。
そんなこんなで敗戦後の日本は、日本の占領政策の拠点として置かれた連合国軍の機関である、
マッカーサー率いる、『GHQ(連合国軍最高司令官総司令部)』の占領下に入り、少しずつ経済の立て直しが始まったのでした。
1946年に、政府が『金融緊急措置令』を発表し、新円切り替えと、預金封鎖が行われましたね。
まず古い紙幣は、預金しなければ、新円に替えられず預金が行われた。
そして、今度は、預金封鎖が行使され、毎月わずかな額しか、下ろせなくなり、生活が大変になったそうでした。
でもその当時、中国大陸や、東南アジアに居た多くの兵隊が帰国し、700万人の軍人や、軍の関係者に退職金が出たため、戦争が終わり、お金は家庭に入ったりと良いことも起こりました。
ただし、多くの地が被害を受けたために焼け野原状態であり、
「お金はあるけど、品物がない」という超インフレになる状況だったのです。
金融緊急措置令は、大胆な政策ではあったが、新円に切り替えるからお金を預金しないと、古いお金は紙屑になると宣伝し、
世の中に流通するお金を減らして、預金封鎖し、使えるお金を制限したことは、インフレ対策としては有効であったことと、それしか方法が無いとも取れる状況だったのです。
そして、GHQの占領政策として、『財閥解体』が起こりました。
三井、三菱、住友、安田などの財閥解体によって、
ピラミッド型の経済界が壊されたことは、日本にとって大きかったようでした。
現在の格差など比にならない差があり、非常に法権的な経済社会であったからです。
歳を取った経営者たちが追放され、若い人々が経営者になって、経済は活性化したのでした。
財閥解体以降、日本の経済界は、『自由な競争』ができるようになったのです。
そこからGHQ占領政策2つ目に『労働組合結成の奨励』もありました。
労働者が賃金アップを要求し、企業がそれに応じれば、消費が活発になりますよね。
それが経済の活性化に繋がったと言えるため、これも成功だったと言えますね。
ただし、政治的な活動と結びついたために、ゼネストなどの混乱が起きたことは誤算であったのでしょう。
GHQ占領政策の3つ目『農地解放』。
それまでの小作人は、大地主の土地を借りて耕していたため、作ったもののほとんどを地主に収めなければいけなかったのでした。
そうすると、労働意欲が湧きませんよね。
なので、農地解放は大きな転換となり、解放以降は、
自分が作った作物が自分のものとなり、それを売ればお金にすることができました。
誰かから「働け」と言われなくとも、一生懸命に働くようになったのでした。
そして、どんどん国が豊かになっていくのが実感できるようになりました。
『やる気を起こす仕組み』が大事なのですね。
そして、1950年には、朝鮮戦争が起こりましたね。
朝鮮半島にとっては、不幸な出来事だったのですが、現地で生産できなくなった必要な物資を日本で生産しようとなり、仕事がいくらでもあり、働けば働くほどお金が入る特需が起き、
日本にとっては、ありがたいと取れる状況であったのでした。
韓国も、ベトナム戦争の際、それによって経済発展を遂げています。
他国の戦争が、自国の利益になる、
皮肉なことですね。
ただし冷静に見ると、
いくら経済が発展したと言っても、戦争があったのでは意味がないですよね。
なお、『自衛隊』の前進である、『警察予備隊』は、朝鮮戦争がきっかけとなりできた組織です。
日本に駐留していた、アメリカ兵が朝鮮半島に派遣されてしまったために、日本が空白状態になってしまったのでした。
その穴埋めを行うために警察予備隊の志願者が募られたのでした。
警察予備隊の発足は、アメリカの政策だったのです。
そして、1960年に、池田総理の『所得倍増計画』がありました。
国民の所得を10年で倍にすると吹いた大ボラはなんと、まさかの7年で、その目標を上回り達成したのでした。
そして、その4年後には東京オリンピックが開催されたことも大きく発展に影響を及ぼしたのでした。
電力不足解消のために考えられた『傾斜生産方式』
日本は、GHQに言われたことばかりしてきたわけでは無く、
自分たちが独自で考えた政策もあったのです。
その政策が、
ある産業に資材や、資金を重点的に投入し、
それらの循環的拡大を通じて産業全体の拡大を測る方法である、『傾斜生産方式』です。
全てのエネルギーや力を、あるものに傾斜的に、一方的に注ぎ込もうという考え方で、
戦後日本では、鉄鋼、石炭増産に集中的に取り組まれ、1947年から実施されたのでした。
兎にも角にも、戦後、荒れ果ててしまっている国を建て直さなければなりませんでした。
ところが、発電所が全てダメになってしまっていて電気が不足し、ひっきりなしに停電していました。
これでは、生活が良くならないと、発電所をしっかり整備して電力を供給しなければいけなかったのです。
また多くの産業にとっても、工場を動かすための電気が必要なので、
まずは産業を進行させ人々の暮らしを豊かにするためには電力こそが大事なのだと、
発電所を作り、発電所のエネルギーを確保することに全ての力を注ごうと決まったのでした。
発電所のエネルギーは、当時、石炭でした。
石炭を掘って、その石炭で火力発電所を動かして電気を起こしていたのです。
そのため、石炭の生産に全力をあげようとしました。しかし、戦争中は、大量の石炭が必要であったため、メチャクチャな石炭の掘り方をしていました。
全国の炭鉱は、すっかり荒れ果てており、そのままでは穴を掘っているうちに上から土砂が落ちてくる落盤事故が起こってしまうため、危なくて石炭を掘り出すわけにはいかない状態でした。
まずは炭坑の整備から行おうとなりました。
まず、土砂が上から落ちて穴が塞がれないように、
大量の鉄で、炭鉱を補強し、土砂が崩れるのを防ごうと考えました。
そのため鉄が必要になるので、製鉄会社を作って、鉄を大量に生産し、
その鉄によって、炭鉱を整備し、石炭を掘り出し、発電所をその石炭で動かそうという運びとなったのでした。
ただしここで立ち止まってみると、鉄は、鉄鉱石を溶かして作りますね。
そのエネルギーはというと、これまた石炭なのです。石炭がなければ、鉄を作れず、鉄がなければ石炭が作れないと。。そして、結局電気を起こすことができないとなりました。
そんなことで、当時の日本の状況はにっちもさっちもいかない行かなかったのです。
それでは、どうしようか。と、考えました。
とにかく何とかしてでも鉄を作ることができれば、石炭を掘れるので、
製鉄所で鉄鉱石を溶かす熱源として重油を援助してほしいとアメリカに頼んだのでした。
アメリカから、重油の援助を受けることができたのでした。
その重油を燃やすことによって、鉄鉱石を溶かし、製鉄所を動かして、鉄を作ることができました。
その鉄で、炭鉱を整備して、石炭を掘り出し、その石炭によって発電をし、電力によって産業が発展し、人々の暮らしが豊かになっていくという流れを作ることができたのでした。
『インフラ整備』により経済活動が活発となり消費が増加
1964年には、東海道新幹線が開通しました。
この新幹線は、
1944年の『ブレトンウッズ協定』に基づいて設立され、
1946年6月に業務を開始した国際金融機関の中心的存在である『世界銀行』からお金を借りて作られました。
世界銀行の現在は、途上国向けの融資が中心となっています。
東京駅には、東海道新幹線は、世界銀行から借りたお金によって作られました、
という碑が今でも残っているのです。
そして、名神高速道路や、東西の大動脈である『東名高速道路』も作られて行きました。
これも最初の資金は、世界銀行から借りていました。
有料道路ですから、高速道路を利用する人が払った料金で借金を返すという形を取ったのでした。
東京と大阪を結ぶ、大動脈である、新幹線と、道路ができたことによって、
物流、人の流れがどんどん活発になり経済が発展していったのでした。
企業にしてみれば、これから所得がどんどん増えるのだから、みんなが買いたいものを作っていこうと考えるし、所得が増えれば、増えた人たちは、それで買いたいというものが出てきますね。
そして、『3C』と言われるものが出てきました。
クーラー(Cooler)、カラーテレビ(ColorTV)、カー(Car)(自動車)、の3つの英語表記の頭文字を取ってこう呼ばれ、これが一大ブームとなりました。
お隣の家が、カラーテレビが入った、車を買った、と、であらばウチも買いましょうと、
あらよあらよと消費が増えていったのでした。
道路や、港湾などのインフラを整備するために公共事業が盛んに行われ、
インフラが整備され、日本でもようやく輸送や輸出入がスムーズに行えるようになり、経済活動が活発になりました。
また、インフラが整備されたことにより、仕事の需要が増え、それにより国民の所得も向上していったのでした。
日本という国がそうやってどんどんと発展して行きました。
また、『貯蓄しよう!』という一大キャンペーンも繰り広げられました。
その頃の銀行には、あまりお金が無かったため、
銀行にお金があれば企業が、銀行からお金を借りることができるようにしたのです。
そして、そのお金で生産を増やすことが叶いました。
そしてそうやって、みんなが稼ぎ始めたお金を銀行に預けてもらい、そして企業にお金を回せるように図ったのでした。
日本人は、こうやって貯金好きな文化が育ったのでした。
夢の海外旅行にも行けるようになった
1963年4月に、業務渡航を承認。
1964年4月に、年1回限りの観光渡航を承認。
1966年1月に、観光渡航の回数制限を撤廃。
このような流れによって、1960年代後半から1970年代初めにかけて、日本はどんどん豊かに発展して行き、ついには、夢のまた夢であった、海外旅行へ行く人たちも出てきたのです。
焼け野原から、海外旅行まで、数十年程度のかなり早いスピードで豊かになりました。
ピンチに陥っても、その時ごとに対策がしっかりできていたということです。
経済政策次第で、その国は発展するのですね。
丁度、高度経済成長のもとで、
次々と新しい工場や住宅を作るための土地が必要となり、農家が農地を売ったのです。
どんどん豊かになる農家の人たちが増えていき、
この時期は農協が音頭を取って主催する海外旅行ツアーが、一大ブームとなったのでした。
そして、その様子は現代における中国の爆買いそのもので、その当時は、日本人旅行者が海外でひんしゅくを買っていたようです
最近、海外でも同じようなことが起きています。
韓国では、1990年代、
そして、2000年から2010年にかけては中国で起こりました。
国が豊かになっていくと、やはり海外旅行に行きたくなるムーブメントが起きるものなのですね。
そして、その後、日本は輸出大国になっていきます。
アメリカは、社会主義国家に対抗するため、日本経済を立て直す必要がありました。
それによって、1ドル=360円という、日本にとって、非常に有利な円安基準に為替レートを設定し、この円安によって、海外にものを安く売ることができました。
よって、効果的に輸出産業が発展し、日本はさらなる経済発展を遂げていくことになったのでした。
明確な経済政策をとれば、国は復興する!
私たちは、
そもそも経済とは何なんだろうか?
経済学は、何なんだろうか?
ということを考えてきました。
おそらく、初めのうちは、経済や経済学って難しいな、自分の暮らしからは縁遠いなというイメージがあったのではないでしょうか。
具体的に身近な話をあげて、考えていくと、
私たちの身の回りは、まさに経済によって全て成り立っていますよね。
経済学の考え方を少しでも知ると、世の中というものが見えてくるのですね。
経済学という学問は、
世の中を分析する1つの武器になりえるということです。
経済とは、要するに、人間の営みであり、人々の思惑によって、経済は動いているのですね。
そして、お金が回ることによって、経済は発展し、お金が回らなくなると、うまく行かなくなるということも、わかってきたのではないでしょうか。
私も同様ですし、経済も経済学も何もわからなかったのですが、
自身の実体験も踏まえて、身にしみて理解ができてきております。
戦後の日本には、大変な問題がありました。
しかし、こうすれば経済が発展するのではないか、という明確な経済政策を打ち出し、見事に復興しましたね。
また、人間とは、戦争や、バブルなど、たびたび問題を起こし、愚かだなという部分もありますよね。
でもその一方で、きちんとした経済政策を打ち出すと、その国は見事に発展する。
それもまた1つの真理となるのです。
人間は、愚かですが、また賢い生き物でもあります。
ここまで、『日本はどうして豊かになれたか?』ということを考えてきましたが、
デフレで悩んでいる日本経済を立ち直らせていくヒントがあったかもしれません。
愚かさから、色々な問題も起きます、でも、きちんとそれぞれの時代に応じた処方箋を書くことができれば、経済は発展し、人々は貧しさから脱出することが可能となるのですね。
そして、その処方箋を考え、発表していく、
経済学とは、そのような役割を持っているのではないでしょうか。
開発援助は、日本のためにもなる?
世界のいわゆる開発途上国では、発展しようにも銀行にお金がないために、
預金を集めるところから苦労するという国々が非常に多くあります。
しかし、貧しい人々が多い国では、預金の使用がありませんね。
このような場合に、経済援助が行われるのです。
世界銀行がお金を貸すというやり方もありますが、日本は、『ODA(政府開発援助)』という形で、
海外にたくさんのお金を貸しています。
その借りたお金で、道路や港湾を整備する、あるいは工場を作り、それで経済を発展させていくということがあります。
日本が開発援助をした、東南アジア諸国が発展したおかげで、日本の輸出が伸びましたね。
海外に援助して、その国が豊かになると、そこは巨大なマーケットになるということなのです。
戦略的に考えれば、海外援助は、結局は日本のためにもなるということですね。
「情けは、人のためにならず」と言いますが、
誰かに情けを掛ければ、結局回り回って、自分のためになるという意味なのです。
つまり、海外への援助はというのは、回り回って、結局は日本のためにもなる、
そういう性格を備えたものでもあるということですね。
自分の汗を流して、必死に取り組んだ、誰かや、何かのための活動は、
回り回って、自分を助ける糧になると信じ、健康と健全な活動に考慮して、励んでいきたいですね。
経済を知っていれば、
未来は、きっと明るいはず・・・・!
僕も頑張ります。
一緒に頑張りましょう٩( ‘ω’ )و