社会不適合の自覚。。
社会適合とは、実は不適合者によって成されているのではないか??
ふと、そんな疑問が頭を巡った。
最近、じぶんが何をしよう、どんな事をしよう、誰の役に立とうと思いあぐねる中、
先日同窓会的な送別会の席に顔を出した。
、皆んな着実とステップを上り、組織で生産を上げ、資金を蓄え、人望を得ていた。
自分はというと、特に決まった成果、実績、名誉、財産を十分に持っていないなかで、
属したくない気持ちは持ち合わせていた。、、
なぜなのだろうか、、、
では、社会適合者とはなにか?、
なぜ自分が、そこに立ち入れないのか、
を考えていくと、
やっている量と、見返りが見合っていないように感じるからなのかな?と思った。
商売上手が考えた歯車を雇われた人員により、稼ぐ車輪を廻し続ける。
そうして社会は動く中で、仕組みを作った側に羽振りが行き、廻している原動者は、割安に賃金をもらう。
稼いでいるのは、廻している人間なのに、だ。
かつて、畑を耕さない人間、収穫を行わない人間は、「働かざるもの食うべからず」と言われたらしい。
ただし、その時代から、殿様や武士は割高に対価を得ていた。
かつてから現代もそのような割安の恩恵を受ける事を受け入れ実施する人間と、それをコントロールする人間にてとで、社会を成り立たせるものこそ社会適合者と呼ぶのだろうか。
その資本と民主形態の矛盾には目を背けられずに、その歪みに意を持ち、
歪んでるものは歪んでるよね、と適正を掲げられる者が適合者となるのだろうか?
社会は、やはり社会不適合者にて回っているのかもしれない。
割安の対価だとしても、コントロールする側が敷いてくれるレールと歯車をただ回すのみによって、問題なく生きられるのであらば受け入れよう、
と、何の矛盾もなく受け入れられる者は、
プラスでも、マイナスで構わないという事に近しいように思う。
つまり、社会に合わせるという事は、その矛盾という歪みにシフトし、理屈ではなく、感性により不適合性を自分に備えることで、順応できているのかもしれない。
ある世界の王国で聞いた話では、
王様が”カラスは白い”と言えば、その王国では、カラスは白い鳥となるのだそうだ。
そんなこんなで、自分はその歪みを受け入れられない、社会適合者だとは言うつもりもないのだが、どこかでご飯は食べて行かなければ死んでしまう。
適合性という名の不適合さを、うまく取り入れつつ、大切な人と楽しく過ごせればまぁいいか、と期待はしている。
最低限の楽しい人生を描けるよう、
社会適合性を養っていけるよう頑張ります!
がんばりましょうΣ( ̄。 ̄ノ)ノ